■平成16年8月1日  「ハートで勝負!」

   2日ほど徒然をサボったら、8月に突入してしまった。ひょっとしてもう2〜3日
   サボったら、一気に秋になってるんじゃないかとも思ったのだが・・・・・。(笑)

   さてさて、日本に出没してからというもの、コンビニ通いがまるで日課のように
   なりつつある。 もちろん1つは、ここんとこネタ不足なもんで、せめて弁当でも
   買って、「駅弁ワールド」にUPして誤魔化すべ〜かというのが動機なのだが、
   それとは別に、根本的にコンビニが大好きなのである。

   以前に徒然で書いたように、深夜に中年オヤジが1人で弁当を買うってのは
   ミョーに哀れみを誘うのだが、その部分を除けば、ワタシにとってコンビニって
   のは、まさにワンダーランドである。たぶん繁華街とかの近くに住んでいる方
   には解りづらいかもしれないのだが、深夜、暗い田舎の道を車で走っていて、
   突然、前方にコンビニの看板が見えてくると、まさに「砂漠のオアシス♪」って
   感じで、ミョーに安心するのである。

   で、本日も飽きもせず、夜中にコンビニに行ってきたのだが、ブック・コーナー
   で偶然に発見した1冊の本を見て、ワタシは思わず憤慨してしまった! その
   本のタイトルは「ネイティブが陰で笑うとんでも英語(ワニ文庫)」ってヤツ
   で、日本人がよく間違える英語表現を紹介した内容である。

   まぁ、単に間違えを指摘するだけならエエのだが、本のタイトルを見て頂けれ
   ばお解りのように、基本的に日本人を小馬鹿にしたような感じが、プンプンと
   漂っているのである。

   例えば、我々日本人は何か欲しい時に、よく「I want 〜」という表現を使うが、
   この本でも指摘されているように、確かにネイティブがこの表現を使うことは
   あまりない。通常は「 I'd like 〜」を使う事が多いのだが、この本では、そこの
   部分の見出しは、「いい年をした紳士淑女が‘〜が欲しい’という意味で使う
   のは考えもの」となっており、本文でも「want はかなり子供っぽい表現である
   ことをご存知ですか?」と、ミョーに嫌味ったらしい書き方なのである。

   その他にも「よく‘Ah-huh’を連発する人を見るが、ネイティブには耳障り」とか、
   「食べ放題をバイキング料理と呼ぶのは日本だけです」、「あなたは疑問文と
   否定疑問文、ニュアンスの違いをワキマエテ使ってますか?」など、実に「や」
   な感じの見出しが多く、読んでいて非常に不快であった。(んじゃ、読まなけれ
   ばエエんだろうが。笑)

   本はアメリカ人男性と日本人女性の共著になっているが、恐らく間違いを発見
   する役目がアメリカ人氏で、そして実際に文章を書くのは日本人女史の役目だ
   ったんじゃないかと思う。この女史のプロフィールを見みると、アメリカの大学を
   卒業したあと、PR関連企業を経て、現在フリーランス翻訳をしているらしいが、
   実際のところ、通訳の現場にはよくいるんですわ、この手のヤツが!

   英語が苦手な方がいるからこそ、自分たちがメシを食べられるってことを全然
   理解してなくて、「通訳してあげてる」とか「翻訳してやってる」っちゅー態度で
   仕事してるんだから、まったく話にもなりゃしない。 実はワタシ、仕事の現場で
   この手の方々に、思わず「たかが英語がしゃべれるのが、そんなにエライこと
   なんかい!」と嫌味を言ったことが、過去において多々あるのである!(爆)

   この手のタイプ、何が始末が悪いかというと、絶対に反省しない点である。 どう
   言う事かというと、彼らが英語や日本語がまったく通じない国・・・例えばタイとか
   カンボジアに行ったとしよう。普通であれば、そこで言語が通じないことの苦しさ
   を身をもって体験すれば、今度自分が通訳をする際に、多少なりとも相手に対し
   て「思いやり」の気持ちで接するモノなのだが、根本的に彼らは「英語が通じない
   の?? そんなの三流国だわ!!」と思っているフシがあるのだ。

   仕事で英語を使う必要があるってんなら話は別なのかもしれないが、旅行とか
   ネイティブの友達としゃべるくらいであれば、んなもん、ぜんぜん気にすることは
   ない。大切なのは細かい文法や表現ではなく、あくまでもハートよ、は・あ・と!
   で、細かいことを伝える必要があるときは、ぜひぜひワタシを雇ってネ♪(爆)
   お安くしときまっせえ〜ぇ!!(笑)



■平成16年8月2日  「暑さに工夫で勝つ!」

   台風のおかげで、ちった〜連日の暑さもマシになっている今日此頃だが、この
   時期、ニュースをチェックしていると、必ず車に子供を置き去りにしてパチンコに
   熱中し、最終的には子供が脱水症状を起こして死んでしまうという、誠に悲惨な
   事件が続発する。

   わたしゃ、どーしてもこの手の親の神経っちゅーのが理解できないんだよなぁ。
   このクソ暑い時期、エンジンを切った状態で子供を車に放置すりゃ、どーなるか
   くらい解りそうなモンだろうに。仮に窓を開けてたとしても、アスファルトからの熱
   で、やっぱ車内温度は軽く40度を超えるだろうし、そんな中で幼児を6時間以上
   も放置して、パチンコに熱中するなんざぁ、単なるアホじゃ済まされない。

   実はワタシ、何がキライって、「暑さ」ほどキライなものはない。従ってクーラーが
   異常に大好きで、車であれば常に18℃全開状態を維持している。まぁ、真夏で
   あれば、他の方でもそーしてらっしゃるかもしれないが、ワタシの場合は、春先、
   いや、ヘタすりゃ冬でもクーラーを全開でかけてることがある。

   日本各地にいるワタシの友人たちのところに遊びに行く時なんか、皆さん、車で
   空港まで迎えに来てくれるのだが、ワタシはいつも「駐車場に車を置いて、到着
   ロビーまで出迎えに来るようなマネだけは、絶対にしないでくれ!」と言っている。
 
   ワタシのいつものパターンは、空港に到着して、飛行機を降りた時点で、友人に
   電話を入れ、車を到着ロビーから最も近い位置に廻してもらい、さらにその間に
   クーラーを全開にして、車内の温度を極限まで冷やしてもらっている。(笑)

   この「独自の習慣」のため、迎えに来てくれる友人たちは、真夏であるにもかかわ
   らず、必ずジャケットを持参でやって来るのである。(笑) ちなみに、ワタシはよく
   車内でパチK&パチ嫁とケンカになることが多い。その原因がこのクーラー問題
   なのである。アイツら、油断すると、すぐに温度を24℃、そして風量を弱にしやが
   るのである! ったくよ!!

   そう云えば、学生時代、超極貧であったワタシは、「クーラー」という文明の利器
   など買えるハズもなく、いつも夏になると扇風機で熱風を浴びながら、瀕死状態
   に陥っていたのだが、人間ってのは苦境に立たされると、ミョーに知恵が回って
   くるのか、いろいろ工夫して暑さをしのいでいた。
 
          ●工夫1 扇風機をできる限り窓のそばに持ってくる。

          ●工夫2 寝る前に必ず水浴びをし、水滴が身体に残った
                 状態で扇風機の前に立つ

          ●工夫3 寝る際は、濡れタオルを胸や足の上に置き、
                 そこに扇風機の風を当てるようにする。

          ●工夫4 冷凍庫で凍らせた缶ジュースにタオルを巻き、
                 これを脇の間に挟んで寝る。(爆)

   工夫1については、大抵の方は常識的にやってらっしゃると思う。で、工夫2と
   工夫3は、いわゆる気化熱ってのを利用して身体の表面温度を下げる方法で
   ある。 そして問題の工夫4であるが、これがなかなか効くのである!!(爆)
   もちろん凍らせるのは缶コーヒーとかオレンジジュース類等など、非炭酸系の
   モノじゃないと、冷凍庫の中で爆発してしまう恐れがある。

   この「缶ジュース攻撃」の隠れたメリットとして、攻撃開始後、約1時間ほど経過
   した時点で、適度に解凍された缶ジュースが美味しく飲める点である!!(爆)
   「気持ち悪〜〜い!」などと気弱なことを言ってはイケない。ビンボーのどん底
   状態の男が暑さに勝つためには、これも仕方がなかったのである・・・・・。(笑)

   てなことで、全国の美しき苦学生の諸君よ! 暑さを創意工夫で蹴散らそうで
   はないかぁ!!(こんなこと書いたら、今度からパチ家に泊まった時、エアコン
   代わりに缶ジュースを渡されそうだよなぁ。笑)



■平成16年8月3日  「吉野家エレジー 」

   先日の徒然で、ワタシが以前バイトをしていた吉野家によく出現していた、妙に
   オモロイじーさんの話を書いたところ、結構ウケが良かったので、調子に乗って
   吉野家時代の話を書こうと思う。(やたら昔話が多くなるのは、老化現象の現れ
   だろうか? 笑)

   別に例のじーさんに限らず、深夜、吉野家に来るお客さんってのは、一癖も二癖
   もある人が多かった。ワタシがバイトしていた京都四条大宮店ってのは、ちょうど
   東映系の映画館の前にあり、そこが週末になるとオールナイトで営業してたこと
   もあって、その上映内容によって客層ってのがかなり違っていた。

   例えば、ヤクザ系の映画が上映されれば、もう気分はスッカリ松方弘樹なのか、
   肩で風を切りながら、異様にスルドイ眼つきでお店に入ってくる客ばかりになるし、
   逆に春休みになり子供用のアニメが上映されると、やたらオタクっぽい客が多く
   なるといった具合である。んじゃ、平日の深夜はどんな客が来ていたかというと、
   酔っ払いのサラリーマンとか水商売のおねーさん、その筋の御方、市場関係者、
   そして学生さんなどである。
   
   四条大宮店は売上がイマイチだったこともあり、深夜の営業はバイト1名のみで
   の運営。ヒマな店における深夜のバイトってのは、かなりツライものがある。昼間
   どんなに爆睡していても、やっぱ明け方近くになると、どーしても睡魔が襲ってくる
   のである。

   睡魔と戦いながらの作業ってのは、「ツラさ」もさることながら、とにかく「危険」で
   ある。事実、仲間のアルバイト君が、原茶(濃縮版のお茶。これをお湯で薄めて
   お客さんに出している)を作るため、大きなお釜でお湯を沸かし、それをポリ容器
   に移そうとしていて、誤って釜をひっくり返してしまい、胸から熱湯を浴び大ヤケド
   を負ったことがあった。
   
   しかし吉野家は24時間運営のお店であり、しかも深夜は1名運営。彼は苦痛に
   堪えながら運営を続けていたが、明け方近くについに痛みに堪えられなくなり、
   その日、非番であったワタシの下宿に電話をしてきて、驚いたワタシが慌てて
   お店に駆けつけバイトを交代し、やっとこさ病院に行くことができたということも
   あった。(その後、彼は1ヶ月近く入院した)

   さてさて、カウンターの向こうで仕事をしていると、普段は気がつかなかったいろ
   んなモノが見えてくることがある。 例えば、キチンとした身なりではあるが、食べ
   た後を見てみると、まさに「食い散らかし」と言った感じの人や、逆に世間の評価
   としては、単なる「不良」としか見られていないであろうが、食べた後の食器類は
   キレイに重ね合わせ、こぼしたご飯粒はちゃんと拾い集め、「ごちそうさまでした」
   と丁寧に挨拶していくイケイケの若者も大勢いた。 それ以来、食べた後の状況を
   見れば、その人の「本性」ってのが、ある程度解るんじゃないかとワタシは思って
   いる。

   これはあくまでもワタシの経験上の話であるからして、決して一般論とは言わな
   いが、お客で無礼な振る舞いが多いのは、圧倒的に一般サラリーマンであった。
   特に酔っ払いのサラリーマンってのは、異常なほどタチが悪く、彼らから「オマエ
   さぁ、こんなとこでバイトして情けないと思わない? まぁ、オレとオマエじゃさぁ、
   レベルが違うから仕方ないよな!」と、謂(いわ)れの無い説教を何度されたこと
   であろうか・・・・。(笑)

   逆に恐ろしいほどマナーが良かったのが、その筋の御方、それも幹部クラスの方
   である。(なぜか吉野家ファンの幹部が多かった。笑) 彼らはすごく思いやりって
   のがあったように思う。(何度も言うようだが、あくまでもワタシの経験上である。)
   例えば、先ほども書いたように、週末は映画館がオールナイトで営業をしている
   関係上、上映が終わると一気にお客さんが押し寄せることがある。 いかんせん、
   1名運営のため、こんな時はメチャメチャ焦ってしまうし、どうしても対応が遅れて
   しまいがちになる。
 
   こんな時、その筋の御方だと、いつも「にーちゃんも1人で大変やなぁ。 ワシのは
   後からでエエから、気にせんといてや。」と声を掛けてくれる。 ところが、ここでも
   サラリーマンの幹部とおぼしき方々は、「オイ、早くしろよ!」と我々には愛の激励
   をしながら、隣にいる部下には、「オレはよぉ、社長だろうが専務だろうが、絶対に
   言う時は言うからよ!」と、息巻いていらっしゃったりなんかする。(笑)  
   
   「吉野家」ってのは、飲食店のランキングで言うならば、決してA級グルメではない
   だろうし、「吉兆」で食事をしたことを自慢する人はいても、吉野家に行ったことを
   自慢する人はほとんどいない。(ワタシは自慢してるが。笑) しかし、そんな店で
   あるからこそ、人間の本性ってのが赤裸々に出るような気がする。つまり、人には
   自分よりも弱く見えるモノの前で優しくなれる人と、逆にやたら威張る人の2種類
   がいるが、吉野家ってのは、その人がどちらのタイプなのかを判断する、いわば
   「リトマス試験紙」のような役目を果たしている時もある・・・・と、そんなことを考え
   ながら、ワタシはバイトに勤しんでいたのであった。(笑)



■平成16年8月4日  「三つ子の魂・・・・」

   徒然に書くべきネタが見つからない時、今まではネットでニュースをチェックした
   り、ダン隊長やパチKに電話してみたりと、あの手この手でネタ探しをやるワケ
   だが、最近は「去年の今ごろは、一体どんなことを書いていたんだろう?」って
   ことで、過去の徒然を読み返してみることが多くなっている。
 
   で、読み返して見て、それを参考にして新しい徒然が書けるかというと、これが
   ぜんぜんダメなのである。 というのも、チェックしているウチに、面白さのあまり
   ついつい読みふけってってしまうのである。(爆) 自分の書いたエッセイでウケ
   まくるってのも、幸せといえば実に幸せな話なのだが、マジで笑える内容のモノ
   が多いのである。 因みにこの悪癖はワタシだけじゃなく、ダン隊長やチョコ女史
   といったスタッフにも伝染していて、頻繁に「過去の徒然」を読み返している。(笑)

   日記を付けたことがある方なら恐らく覚えがあると思うが、過去に自分が書いた
   文章を読み返すってのも、なかなか趣があって楽しいモンである。まぁ、徒然の
   ように、1年前くらいの文だと、考え方とか心理状態に大きな変化は見られない
   のだが、これが10年以上前の文章だと、今では考えられないような初々しさが
   あったりして、思わず目を細めてしまうことがある。歌の文句じゃないが、まるで
   アルバムの中の色あせた写真を見るような感じである。
 
   実は先日、高松の実家に戻った際、ダンボールの中から高校時代につけていた
   日記を発見した。本来は日記をつける習慣など全くないのだが、何かの気まぐれ
   で高校2年生の秋に3ヶ月ほどつけていたみたいなのである。で、それを読み返
   してみたところ、かなり笑える内容のモノが多い。 例えば、ある日の日記を見て
   みると・・・・・

   1979 年11月21日(水) はれ
   朝9時45分に家を出る。もちろん完全に遅刻だ。教室に入ると、数IIBのテスト中
   であった。もう少し遅く家を出ていれば良かったと後悔する・・・。3時間目の古文
   の授業中、〇〇が××の弁当を盗み食いをしようとしていたので、「オイ、そんな
   ことはやめろ! 腹がへったのなら、オレの弁当を食べろよ!」と言って止めた。
   一瞬、自分が神様のように思えた。すると〇〇はしっかり俺の弁当を食べやがっ
   た。仕方がないので、4時間目の英語の授業中、逆に〇〇の弁当を盗み食いし
   てやった。これで〇〇も人生の厳しさを知ることであろう。


              ・・・・・・という感じで、根っからの楽天的性格が炸裂したような
   内容が続いていた。(笑) 


              
              幻の高校時代の日記帳            けっこうビッシリと書き込まれている


   てなことで、懐かしさも手伝い、ついつい3ヶ月分の日記を読破してしまったのだ
   が、読んでいてふと思ったのは、ワタシの場合、17歳の時も今も、考え方や感性
   ってのが、ほとんど同じであったということである。 早い話しが人間的にまったく
   成長していないってことなんだろうが、高校時代に腹が立ってたことは、今でも
   ムカつくし、笑いのツボってのもまったく今と同じなのである。

   俗に「三つ子の魂百まで」と云うが、人間の基本的な性格なんて、そうそう変化
   するもんじゃないのかもしれない・・・・。ということは、10年・20年後に、この徒然
   を読み返したら、やっぱその時もワタシはバカウケをして喜んでいるんだろうか?
   何だかみょーに不思議な感じがする。(笑)



■平成16年8月6日  「歴史教育一考」

   今日、8月6日は59回目の「原爆の日」である。悲しいかな「人類の愚かさ」という
   ものが実証された歴史的な日でもある。 広島や長崎は言うに及ばず、全国各地
   で平和を祈る祭典が開催されている。

   さて俗に「教育の現場には絶対に持ち込んではいけない」と言われているものが
   2つある。1つは「政治」であり、もう1つは「宗教」である。特に小学生や中学生は
   常にニュートラル(中立)な状況下で教育するべきであり、そこに政治・宗教を持ち
   込むことは、彼らが持つ「無限大の可能性」を潰してしまう結果になりかねない。
   従って上記の2つを排除することは、学校教育の基本的ルールとも言える。

   ところが「歴史」という教科については、どうもそのルールが適用されていないよ
   うな気がする。 というか、歴史の教科書を広げればお解りのように、習う内容が
   政治や宗教そのものなのだから、「ルールが適用しにくい教科」という方が正しい
   表現かもしれない。 しかしそれを隠れ蓑にして、教育の本道から外れた指導を
   するのは、やはり許されるものではない。

   今の小・中学生に対する歴史教育で、ワタシは非常に疑問に思っていることが
   1つある。それは、なぜ固有名詞入りで説明しなければならないのかという点
   である。「日本人が南京で中国人を虐殺した」「米国が日本に原爆を投下した」
   「ナチスがユダヤ人を迫害した」・・・・いずれも固有名詞付きで説明がなされて
   いる。

   まだ知識や経験が乏しく、とても正しい判断を下せる段階ではない小中学生に
   対して、固有名詞付きで歴史を教えた場合、その先にあるものは何なのだろう
   か? どのような未来につながって行くのか?? 単に「自分たちの先祖は酷い
   ことをした」または「自分たちの先祖は酷いことをされた」と云った、加害者意識
   や被害者意識を植え付けるだけではないだろうか?
   
   未来ある子供たちに歴史を通じて教えるべきは、誰が被害者で、誰が加害者で
   あったかではなく、あくまでも「人間の愚かさ」である。長い歴史の中では、誰もが
   加害者になるだけの残酷さを持ち、また誰もが被害者になってしまうだけの不運
   もある。歴史の中での残酷な行為は、いずれも突き詰めて考えるなら、「人間が
   人間に対して行った愚行」ということに他ならない。

   「教育」とは読んで字の如く、「教」の部分と「育」の部分の2つで成り立っている。
   「真実を教えることこそ正しい歴史教育である!」という信念の下、まだ未成熟な
   子供たちに知識だけを教え、「後は自分たちで判断しなさい」というのでは、「育」
   の部分がまったく欠落している。「真実」を教える前に、もっと大切なこと・・・つまり
   被害者とか加害者と云った立場を越えて、「人間としてどうあるべきか・・・」という
   大局的な視野というものを育てることこそ、小中学生の段階で必要なことである
   とワタシは思う。 細かい真実を知るのは、高校または大学からでも遅くはない。
   
   世の中には、いろんな考え方の人がいる。中には考え方が180度異なる集団も
   ある。 しかし、21世紀を担う子供たちを、大人のエゴイズムでそんな俗物的な
   集団にスポイルすることだけは絶対にしてはいけない。これが平和への第一歩
   であるとワタシは思っている。



■平成16年8月7日  「超特殊相対性理論?」

   かの有名なアインシュタイン博士が相対性理論を発表した際、「相対性」という
   言葉の意味するところがよく理解できなかった記者から説明を求められた際、
   次のように語ったという・・・・。

      熱いストーブに1分間手を載せてみてください。まるで1時間ぐらいに
      感じられるでしょう。ところが、かわいい女の子と一緒に1時間座って
      いても、1分間ぐらいにしか感じられません。それが相対性というもの
      です。

   要するに、この世では「絶対」とすら思われている時間も、実は状況によっては
   長くもなったり短くもなったりするということである。

   さて、統計学の本などを見ていると、「飛行機は車よりも安全」なんてことが書か
   れていたりなんかする。 統計的な結果が出てる以上、それにケチをつけるワケ
   にはいかないのだが、実はここにも思いっきり「相対性」ってのが潜んでいる。

   例えば、飛行機の墜落事故が発生したとしよう。犠牲になられた乗客の中には、
   この時初めて飛行機に乗ったって人もいると思う。 いくら統計学的に飛行機の
   事故率が仮に0.001%を切っていたとしても、その方々からすれば、飛行機って
   のは100%墜落するモノということになる。当たり前の話であるが、統計学という
   のは、あくまでも一般平均的な未来を予測するものであり、特定個人の未来を
   予測する能力はない。

   なぜこのような話を出してきたかというと、夏休みってこともあるんだろうが、ここ
   んところ、いろんな旅行系サイトの掲示板で「子連れ旅行」に関して、熱い議論が
   交わされており、それらを読んでいるウチに、ふと「相対性」ということが頭に浮か
   んできたからである。

   よく「子供はウルサイからFとかCに乗せるべきではない」という意見が出される。
   それらの投稿は、恐らく実体験に基づいて書かれたものだと思うし、一般的にも
   「子供はウルサイ」ということで認知されている。ところが不思議なことに、ワタシ
   自身は、これまで数え切れないほど飛行機に乗っているが、どんな理由があった
   のかは別にして、「ホントにウルサイ子供」ってのには、ほんの1〜2回しか出会っ
   たことがない。

   むしろ「イビキのウルサイ人」や「思いっきり汗臭い人」とかに遭遇した経験の方
   が遥かに多い。イビキに関しては、まぁ、本人も悪気があるワケじゃないし、耳栓
   などをすればある程度ガマンできるのだが、「汗臭い人」に関してはまさか鼻栓を
   するワケにもいかないし、マジで頭痛がしてくることもある。ここで云う「汗臭さ」と
   は、暑さだけの理由でかいた汗の臭いではなく、2〜3日風呂に入っていないこと
   からきていると思われる臭さである。

   FとかCとかに搭乗して、「ウルサイ子供」に出会えば、そりゃムカついてくるとは
   思うが、投稿された方ってのは、そんなに高い確率で、そんな子供に出会ってい
   るんだろうか? 統計学的にはたぶんウルサイ子供の方が多いとは思うのだが、
   ワタシ個人の相対性からすると、「機内でウルサイ子供に出会う確率」ってのは、
   たぶん0.1%を切っていると思う。

   にもかかわらず、掲示板には子供によって頻繁に酷い目にあったという方々から
   の投稿が結構ある。それは一体なぜなんだろうか?と考えてみたのだが、1つに
   は、マジで運悪くそのようなことばかり起こってしまったということもあるだろうが、
   他にも、やっぱ人間ってのは、例え100回ノーマルな状態が続いても、101回目に
   不快な体験をすると、印象としては強く残ってしまい、例えたった1回でも感覚的
   には50 回分くらいの強い印象が残るからじゃないかと思う。

   ここでワタシの見解を述べるならば、例えどんな理由があろうが、ウルサイもの
   はウルサイし臭いモノは臭い。従って「子供はウルサイから」という一般統計学
   上の理由だけで、「だから子供はFとかCに乗せるべきではない」ってのは、明ら
   かに大人しい子供への偏見でり、さらに「いや、FやCは大人の世界なのだから、
   たとえ静かな子供であろうと、自分で稼げるようになってから乗るべきである」と
   いう意見は、もはや単なる個人的な哲学に過ぎず、その証拠に航空会社は子供
   が親と伴にFやCに乗ることを拒否してない。誤解があるとイケないので、クドイ
   ようだがもう一度言うと、「誰であろうが、迷惑なヤツは迷惑!」なのである。

   ちなみに、これは別にワタシが子供持ちなので子連れを弁護しているワケでは
   なく、あくまで個人的な体験に基づく「超特殊相対性理論」から書いている次第で
   ある。(笑)



■平成16年8月9日  「国民性と歴史的背景」

   先週末の夜は、TVの前で手に汗握っていた方が多いのではないだろうか?(笑)
   既にご存知の通り、サッカーの2004年・アジアカップの決勝戦は、日本が3−1で
   中国を破り、見事に2連覇を達成した。

   それにしても、あの中国の過激な応援を見るにつけ、先日(8月6日付)の徒然で
   書いた通り、教育の現場に政治や宗教を持ち込んでしまった末路には、結局は
   明るい未来とは程遠い、過激で偏向したナショナリズムしか残らないということを
   奇しくも証明してしまった感がある。 いや、応援だけならば、多少過激になってし
   まうのも理解できる。だが、試合後に日本の国旗を焼き払ったり、日本公使の車
   を襲撃したりするに至っては、もはや国際的な常識から逸脱しているとしか言い
   ようがない。また何故か日本では報道されていないが、日本人が宿泊している
   ホテルが襲撃されたり、暴行を受けた人がいたりなど、実際には想像以上に酷い
   状況だったようである。

   ワタシは中国という国家に対して、何ら偏見は持っていないが、1つの事実として
   書くならば、海外でも中国人は非常によくトラブルを起こしている。 ワタシの住む
   クライストチャーチには結構大きなユースホステルがあるのだが、ここのスタッフ
   とは顔なじみで、よく飲みに行ったりなんかする。 スタッフやマネージャーの話に
   よると、ユース内で発生するトラブルの大半は中国人が巻き起こしたものらしい。
   特に多いのが騒音に関するものだそうだ。

   例えば、ドミトリー(相部屋)に宿泊する場合、翌日の旅の準備というのは、できる
   限り早い時間に済ませ、夜8〜9時以降は部屋自体は消灯し、何かやりたいことが
   ある場合には、リビングに行ってやるというのがマナーというか、「ルール」である。
   ところが、中国人旅行者は深夜に突然部屋の電灯を付け、思いっきり大きな物音
   を立てながら、何か作業を始めたりするのである。

   もちろん、こんなことをすれば、即座に同室の旅行者からクレームがつくのだが、
   それに対して彼らは逆ギレをして、それで益々大騒ぎになってしまうのである。
   んじゃ、同じ文化を持った中国人同士であれば、このような状況でもケンカは起
   こらないのかというと、「寝ているのに眩しいじゃないか!!」とか「こんな夜中に
   ウルサイぞ!」みたいな感じで、やっぱケンカを始めるらしい。(笑)

   ワタシはいつもの癖で、スタッフに「それって、大袈裟に言ってるだけじゃない?
   中国人がみんなトラブルを起こすわけじゃないでしょ?」とツッコンでみたところ、
   スタッフ全員が「確かに全ての中国人がトラブルを起こすわけじゃない。 しかし
   50%以上の人が必ず何らかのトラブルを起こし、この数字は他の国民と比較し
   てもズバ抜けて多い」と語っていた。

   他にも金銭的なトラブルが多いのも特徴らしい。そう云えば、ワタシが出張の際
   いつもお世話になっている旅行代理店の担当者も、「困るのは、ちゃんと見積書
   を提示し、それに納得した上で予約を入れ、そして発券したのに、いざ支払いと
   云う時になってから、‘値段が高過ぎ。もっと安くするべきだ!’とゴネてくること」
   とボヤいていた。 またホームステイ・コーディネーターもまったく同様のことで頭
   を抱えており、実際のところ、NZでは「中国人の学生お断り」としているご家庭も
   かなりあるのだ。

   これらのトラブルの遠因には、中国の歴史的背景というものが関係あると言われ
   ている。ご存知の通り、中国というのは殷(いん)から始まり、その後何度も王朝
   が変わりながら、現在の中華人民共和国になった。王朝が変わるということは、
   国自体が変わるということであり、国が変われば、当然ながらルールも変わる。

   あるルール(法律)を厳格に守っていたとしても、国家自体が変わってしまえば、
   そのルールは無効となり、マジメにルールを守っていた人々がバカを見ることが
   多々発生してしまうのである。そんなことを繰り返すウチに、人々はルールって
   のを、それほど重視しなくなり、現在の中国は法治国家(人治国家とも云われて
   いるが)であるにもかかわらず、「尊法精神」ってのが国民に浸透しているかとい
   うと、限りなく「?」がついてしまうというワケである。

   別に中国に限らず、その国の「国民性」というのは、歴史的な文化背景によって
   形成される場合が多い。例えば、日本人はよく「集団で行動する」と言われるが、
   これまた歴史的に見れば、我々はずっと農耕民族であり、農耕ってのは集団で
   やるモンだから、それが大きく影響しているらしい。一方、欧米人は個人主義の
   ところが多いが、これまた歴史的に見ると、欧米ってのは狩猟民族であったとこ
   ろが多く、狩猟ってのは根本的に個人でやるものだから、これまたそれが現在の
   欧米人のアイデンティティーにも大きな影響を及ぼしたというワケだ。

   まぁ、それらの歴史的な文化背景を否定してまで、新しい未来を築くべきだとは
   思わないが、やはり、これだけグローバル化が進んだ現在、共通のルール常識
   を創るためには、ある程度、個々の歴史や文化を抑えなければならないことも
   あるだろう。その時に最も重要な役割を果たすのは、やっぱ「教育」であり、この
   前の徒然にも書いた通り、21世紀を担っていく子供たちは、ニュートラル(中立)
   な環境で育てていくべきだと思う。



■平成16年8月10日  「エアコン万歳♪」

   先週は台風の影響でちょっと涼しい日もあったらしいが、またまた気合いの入った
   暑さが戻ってきたようで、朝っぱらから温度計が元気にグングンと上昇している。
   この時期の営業や出張ってのは、ホントにツライものがある。

   シロクマ体質のワタシにとって何が一番ツライかというと、実は新幹線での移動
   である。大嫌いな汗を噴出しながら、やっと駅のホームに辿り着き、あとは涼しい
   車内でタバコでも吸いながらビールでも飲むべ〜かと、それだけを心の拠り所と
   して生きてきたのに、いざ、新幹線に乗ってみると、車内があまり涼しくないので
   ある。

   それまでクソ暑いところで堪えてきたんだから、やっぱ車内に入った瞬間は、誰も
   がスカーっとエアコンの効いた冷たい空気を堪能してたいモンである。 ところが、
   ワタシの長年の調査によると、新幹線の車内の温度は、27℃前後に設定してあ
   ることが多いのである! 「超・冷房大好き男」のワタシからすれば、実に軟弱な
   温度設定としか云いようがない。「弱冷車」を設けるのであれば、「強冷車」という
   のだって作って欲しい!! 全国のビジネスマンの皆さん、及びシロクマ体質の
   皆さん、そー思いません?(笑)

   ちなみに、飛行機の機内温度は、24℃前後に設定してある航空会社が多いらし
   い。この24℃というも、実は平均的な温度設定であり、食事中は23℃に下げたり、
   逆にオヤスミ時間になると25℃くらいに上げたりと、わりと細かく温度設定をして
   くれている。もちろん、これは新幹線と異なり、機内にいる乗客全員が、ほぼ同じ
   スケジュールで行動しているからこそできるサービスではある。

   これまたワタシの経験談になってしまうのだが、シンガポール航空&NZ航空は
   思いっきり冷房を効かせていることが多い。たぶん常時23℃設定なんじゃないだ
   ろうか? これに対して、大韓航空はちょっと高めというか、寝ていても暑いくらい
   である。(たぶん28℃くらい) てなことで、ワタシは夏場に大韓航空を利用するこ
   とは滅多にない。また全日空は日本人の体質に合わせているのか、ちょうどイイ
   感じの温度設定だと思う。
  
   さて「冷房」で思い出したのだが、シンガポールってとこは、赤道直下に位置して
   いるにもかかわらず、実はスゴーク寒い! 何のことかお分かりだろうか?(笑)
   行かれたことがある方はご存知だと思うが、タクシーでもレストランでも、どこに
   行っても「これでもか〜ぁ!!」ってくらい、エアコンをガンガンに効かせているの
   である。バンコクや香港なんかもその傾向が強い。一般的にトロピカル気候の国
   では、「エアコンを効かす」ってのは、最高のサービスの1つだと考えられている
   らしいのだ。いや、実際、ワタシからすれば、どんなサービスよりも嬉しい心遣い
   である。

   それに比べてパチ家の車のサービスの悪さといったら、もう話にもなりゃしない!
   すぐに温度を24℃にしやがる。何のために温度設定が18℃まであるのか、何の
   ために風量調整の中に強風があるのかが、ぜんぜん解っていないのである!!
   エアコンは全開にしてナンボのモンである。甘やかしちゃイカン、甘やかしちゃ!
   子供の教育も大切だが、パチ家の再教育はもっと大事かもしれんな。(笑)

   追伸  徒然の中にやたらと登場するパチKとパチ妻。彼らが登場する度に
        イチイチその正体を説明するのはヒジョーに面倒臭いので、過去の
        徒然の中から彼らが登場したモノを一覧表にまとめたので、それを
        参考にしてくらはい。(笑)      パチK&パチ嫁 大全集



■平成16年8月11日  「嗚呼・誤解!」

   自分自身はなーんの疑問も持たず、ずーっと正しいと思っていたことで、他人から
   指摘されて、初めてそれが大きな間違いであったことが判明した・・・な〜んてこと
   は、誰でも1度や2度はあると思う。イヤ、別に人生論的な小難しい話ではなくて、
   もっと単純なこと・・・・つまり誤読や空耳レベルの話である。

   まぁ、単純な誤読程度であれば、一般的にもかなりあると思う。お土産(おみやげ)
   を「おどさん」、牽引(けんいん)を「けんびき」、ベートーベンの交響曲第3番「英雄」
   を「ひでお」と読む人は実に多い。(←多くないって?)

   また逆に、「誤読」と勘違いされている読み方もある。 例えば「重複」というのは、
   確かワタシが小学生の頃は「ちょうふく」と習ったのだが、別に「じゅうふく」と読ん
   でも間違いではない。これと同様に「茶道」も一般的には「さどう」と読まれている
   し、もちろんこれも間違いではないのだが、実は「ちゃどう」と読むのが正式表現
   である。その証拠に、国語辞典など「さどう」を調べると、「ちゃどう(茶道)に同じ」
   と書いてあり、「ちゃどう」で調べると、詳しくその意味や由来が書いてある。

   上記の例は、単なる読み間違いに過ぎないワケなのだが、単語によっては、その
   意味自体を思いっきり勘違いしている場合もある。これはワタシの知人の話だが、
   「トーシロでもあるまいし、そんなアホなことやんなよ!」というセリフの「トーシロ」
   という単語は、もちろん皆さんご存知のように、「素人(しろうと)」を逆さに読んだ、
   いわゆる業界用語ってヤツだが、知人はつい最近まで、これを「唐四郎」という人
   の名前だと思っていたらしい。 オモシロイもんで、本人は聞き間違いから単純に
   誤解しているだけではなく、「その昔、唐四郎という人がいて、その人はすごくドジ
   で有名だった」と、自分なりの勝手な解釈までしていたのである。(笑)

   実を言うと、ワタシも中学生の頃、何か大問題が発生した時に政治家などがよく
   使う「遺憾の意」という言葉の意味を、「イカンの‘イ’」だと信じて疑わなかった。
   そして、その時も自分では「そりゃ絶対にイカン」というセリフを口にできないほど
   腹が立ってるので、政治家は省略形で「イ」とだけ表明するんだと、勝手に解釈
   して納得していたのである。(笑)

   この他にも、「台風一過」を「台風一家」、「場末の酒場」を「バス停の酒場」、さらに
   「汚職事件」を「御食事券」など、意味自体を取り違えているパターンは実に多い。
   日本語ですら、誤読にしろ誤解にしろ、これほど間違いが多いのだからして、コレ
   が英語ともなると、もっとスゴイことになる。

   AUやNZなどイギリス系の国々を旅行された方はご存知かと思うが、これらの国
   のレストランやホテル、空港などの公共施設の中で、よく「Smoke Free」と書かれ
   た看板を見かける。普通、日本人がこの看板を見れば、「Smoke = 煙 = 煙草」
   「Free = 自由 = OK」と解釈し、何の疑いもなくそこで煙草を吸ってしまい、思い
   っきり係員に注意されることがある。

   実は「Smoke Free」とは「禁煙」の意味なのである。我々日本人からすりゃ、どうも
   納得できない表現だが、正確に表現すると「Free from smoke.(煙から逃れた所、
   煙のない場所)」となり、つまり「禁煙区域」となる。思わず「まわりクドイ表現をす
   るんじゃねーよ!」と云いたくなるが、この「Free」という単語は、実に誤解の多い
   単語で、例えば日本のファミレスやディスコなどで、よく「食べ放題」という意味で
   「Free Drink & Free Foods」と書いていることがあるが、欧米人さんからすると、
   どう考えても「タダ酒、タダめし」と書いてあるようにしか見えないため、トラブル
   の元になることが多い。(因みに「食べ放題」は、英語で「Buffet Style」) 
 
   で、トラブルの際、わたしゃ日本語英語について説明しつつ、誤解を解こうと努力
   するのだが、相手が最後まで納得せず、「間違えた英語を使ってるのが悪い!」
   と駄々をこねた場合、売り言葉に買い言葉で、「テメーらだって、間違えた日本語
   を使ってるじゃねーか! だいたい、どーして九ちゃんの名曲‘上を向いて歩こう’
   が‘スキヤキ’なんじゃ! この際ハッキリ説明してもらおーじゃねーか!」と啖呵
   (たんか)を切ることにしている。(笑)

   でもまぁ、すべてが解り合ってる状態ってのは理想ではあるが、少しくらい誤解が
   あった方が刺激があって面白いかもしれん。 特に酒の席では、この手の失敗談
   が最高のツマミになることだし。(笑)



■平成16年8月12日  「安全な空へ」

          安全はこの世に存在しない。存在するのは危険因子と、
          それが顕在化した危険だけである。潜在する危険因子を
          顕在化しないように努力し続けた結果、何事も起こらな
          かった状態を「安全」という。 危険因子を排除し続ける
          努力を一瞬でも怠れば、危険は「事故」という形で顕在化
          する。
                 日本ヒューマンファクター研究所・所長 黒田勲

   今年もこの日がやってきた。日航ジャンボ機墜落事故・・・・我々の世代の人間に
   とっては、恐らく人生の中で最もショッキングな事故の1つではないだろうか?

   1985年8月12日・午後6時12分、乗員乗客524名を乗せたJAL123便(B747型機)が、
   大阪・伊丹空港に向けて羽田を飛び立った。 ところが、離陸してから約12分後の
   午後6時24分、「ドーン」という爆発音と伴に垂直尾翼が破壊され、32分間の迷走
   飛行の後、午後6時56分28秒、群馬・埼玉の県境近くにある御巣鷹山に墜落した。
   犠牲者は520名と公式には発表されているが、事故当時、まだ母親のお腹の中に
   いた小さな命も含めれば、犠牲者はさらに多くなる。

   タイタニック号の事故でもそうだが、「大事故」が発生すると必ずといってよいほど
   「謎」や「疑惑」というのが出てくる。そして、さらにそれがエスカレートして、最終的
   には「陰謀説」というものまで出てくる。日航機墜落事故に関しても、皆さんご存知
   の通り、様々な「憶測」がいまだに飛び交っている。

   憶測が生まれた理由としては、生存者の証言やCVR(ボイスレコーダー)の記録
   から判断して「急減圧は発生していなかった」とか、「ドーン」という音が発生して
   から、わずか12秒後にスコーク(緊急事態発生を告げる信号)を発信している点
   など、専門的な観点から生まれたものも数多くあるが、多くの一般人からすれば、
   恐らく次の2つの納得できない事実に集約されていると思う。

       1)墜落現場の特定に異常に時間がかかった。
       2)事故現場がほぼ特定されたにもかかわらず、最初に救助隊が
         現場に到着したのは、事故発生後12時間以上経過してからで
         あった。

   ワタシは日本国内で発刊された日航機墜落事故に関する書籍については、ほぼ
   すべて読破したのだが、不思議なことに、読めば読むほど納得どころか、逆に謎
   が深まっていく感じがするのである。その中でも個人的に最も納得できないのは、
   事故調査委員会によるCVR解析の最終報告の最初の部分である。

   まずは事故発生時(午後6時24分34秒)のCVRを、実際に聞いて頂きたい。

               Cockpit Voice Recorder JAL123

   事故調査委員会の最終報告書では、この部分の解析は次のようになっている。

         18:24:35   「ドーン」という爆発音
         18:24:37   (?)・・・
         18:24:39   なんか爆発したぞ(機長)

   「ドーン」という爆発音直後の「(?)・・・」の部分であるが、何度も繰り返し聞いて
   みたが、どうしても私には「まずい」と云ってるように聞こえるのだ。コンピューター
   で音声解析をすれば、恐らく一発で判明すると思うのだが、事故調査委員会の
   報告書では、なぜか不明となっている。

   さて、もしこの部分が実際に「まずい」だったとすると、どのようなことになるのだ
   ろうか? まずは日常生活の中で、我々が思わず「まずい」と云ってしまう状況を
   考えてみよう。予想もしていなかったような何か突発的な状況が発生した場合、
   即座にこの「まずい」という言葉が出るであろうか? 例えば、高速道路を走って
   いて、「ドーン」という衝撃音と伴に、車の部品の一部、例えばホイールカバーが
   脱落したとしよう。恐らく大半の方は「まずい」ではなく、「え?」とか、「今の何?」
   と発するのではないだろうか?

   では、ガソリンが残り少なくなってきている状況で、運悪く渋滞に引っかかってしま
   った場合にはどうであろうか? これならガソリンメーターを見ながら、「まずい」と
   思わず言ってしまうと思う。つまり、「まずい」という言葉は、頭のどこかで、何らか
   の悪いシナリオをある程度予想していて、それが実際に起こってしまった場合か、
   絶対にミスの許されない作業をやっている最中、誤って何か失敗してしまった時
   に思わず発する言葉だと思うのである。

   仮に123便の機長が何かシナリオを予想してたとしても、もちろん、それは「墜落」
   などという最悪のシナリオではなかったであろうし、定期運行便の機長としては、
   「運行の安全」を最優先事項としながらも、それ以外に定時性、経済性、利便性
   など、様々なことを考慮しながら飛行することを期待されている以上は、マイナー
   なトラブル予想であれば、それをもって即座に飛行中止というわけにはいかない
   であろう。(皮肉な事に、どんな理由があるにせよ、飛行中止になった際、一番に
   文句を言うのは、我々乗客自身である)

   既に終わってしまった事を蒸し返すのは、少なくとも個人的には好きではない。
   しかし、「未来における空の安全」ということを考えた時、例えそれが辛く悲しい
   作業であってもやらなけばならないことがあり、「誰が悪かったのか」という責任
   追求ではなく、あくまでも「何が悪かったのか」という原因追求を最後までやりと
   げなくてはならないのである。

   今年の夏も、あの夏のように暑い・・・・・・とめどもなく流れ落ちる汗と涙をぬぐい
   ながら、このサイトに集う、飛行機が大好きな皆さんと一緒に、犠牲者の方々の
   ご冥福を心から祈りたいと思う・・・・・合掌。



■平成16年8月13日  「法と強制力」

   終戦記念日が近づいてきた。この時期になると、全国各地で平和のための祭典
   が開催される。戦争のない国際社会・・・・・これはまさに人類共通の理想であり、
   幸福の絶対条件でもある。そのような意味で、まさに体を張って世界平和のため
   の運動に人生を捧げている方々に対して、私は心から尊敬の念を抱いている。

   ただ非常に残念なことに、これらの尊き運動をされている方々の中には、私から
   すれば、どうも基本的な知識が欠けていらっしゃる方も見受けられるような気が
   する。

   例えば、武器を使った行為を、すべて「戦争」とみなしている方がいる。その方に
   お尋ねしたいのだが、ピストルを発砲しながら立て篭もる強盗犯を逮捕する際、
   警察が武器を使用することにも反対なのであろうか?  包丁を振り回しながら
   抵抗する凶悪犯を、警棒を使って取り押さえることも暴力になってしまうのであろ
   うか?

   考え方の違う多くの人々が同じ社会で生きていく以上、必ずそこには最低限度の
   ルール・・・つまり「法」が必要となってくる。 法は厳格に守られてこそ意味があり、
   もしこれを破るものがあれば、もちろん規制しなければならない。規制というのは
   何らかの形の「強制力」があってこそ、初めてその効果が現れる。 その強制力を
   発揮するための方法の1つに、先ほどの凶悪犯の例でもお解りのように、武器の
   使用というものがあるのは、ある意味で当然のことである。「裁判で決着をつけれ
   ば良い」などと言うのは、あくまでも逮捕後の話である。

   規模の違いこそあれ、これは国際社会においても同じである。国家自体が国際
   ルールに反している場合、もちろんこれを規制しなければならない。もし相手が
   武器をもっていた場合には、こちらもそれ以上の武器を持って規制をしなければ
   ならない場面も必ず出てくる。いま話題の「バカの壁(養老猛著)」ではないが、
   「話せば解り合える」などと言うのは、現実的にはかなり難しく、話し合いで決着
   がつかない場合には、最終的な手段として、武力を背景にした強制執行という
   オプションがあるのも当たり前ではないだろうか?(無論、安易に使う手段では
   ないことは云うまでもない)

   「法が世の中の最低限のルールであるとするならば、「道徳」というのは法の上に
   ある理想の概念と云える。法が強制力をもって外面的に人を規制するとするなら
   ば、道徳は感性をもって内面的に人を規制する。言い換えるならば、「強制力」で
   は決して道徳を維持することはできないし、逆に「感性」では決して法を維持する
   ことはできない。

   誤解のないようにもう一度書くが、私とて戦争には大反対である。 ただ1つだけ
   よく理解しておかなければならないのは、先ほども書いたように、「法」という社会
   における最低限のルールを厳格に運用するには、「強制力は必要不可欠」という
   現実である。大切なのは、その強制力を大国だけが、あたかも自国に与えられた
   特権のように振りかざして暴走することのないよう、全世界の国々が監視すること
   であり、強制力そのものを否定することではないと思う。



■平成16年8月16日  「靖国からの声」

   既に新聞やTV報道などで皆さんご存知の通り、終戦記念日の昨日、現役の閣僚
   4人が靖国神社を参拝した。ニュース映像を観ていて、いつも苦笑してしまうのは、
   どこのメディアかしらんが(ホントは知ってるけど)、まるでアホの1つ覚えのように、
   閣僚に「今日は公人としての参拝ですか? それとも私人としてですか?」という
   質問を浴びせている輩がいることである。 そんなもん、閣僚がどんな交通手段で
   やって来たのかを見れば、一目瞭然だろうに・・・・。(笑)

   えーと、ここでいわゆる「靖国問題」ってのを知らない世代の方々のために、軽く
   解説をすると、今を遡ること約140年ほど前の1868年、維新軍(政府軍)と 旧徳川
   幕府の残党軍の間で約1年半にも渡って激しいバトル(戊辰戦争)が繰り広げられ
   た。でもって、その戦いで亡くなった方々の霊を祀るために、1869年、明治天皇の
   意向によって創建されたのが「靖国神社」である。

   当初は内戦で亡くなった方々を祀っていたのだが、西南戦争(1877年)後は、主に
   外国との戦いで、日本を守るために散っていった人々を祀るための神社となった。
   大東亜戦争(太平洋戦争)中には、多くの若者が「靖国で会おう!」を合言葉にし、
   その尊い命を国のために捧げてきたのである。

   で、何が問題なのかというと、この神社には平成15年現在、2,466,495人の方々が
   祀られているのだが、その中に、終戦後に開かれた軍事裁判(東京裁判)で、A級
   戦犯として死刑判決を受けた人々も祀られており、そんな戦争犯罪者が祀られて
   いるところに、政府関係者、特に日本国の代表である内閣総理大臣が参拝するの
   は実にケシカラン!ってことで、アジア諸国(中国と南北コリアだけだけど)のみな
   らず、日本のメディア(某新聞社だけだけど)、そして言論人(左系だけだけど)から
   も「日本は再び軍国主義化してる!」と激しいクレームがついているのだ。

   まぁ、詳細は省くが、A級戦犯云々の件に関しては既に、東京裁判の裁判長だった
   ウイリアム・F・ウエッブ氏や東京裁判の事実上の責任者であったD・マッカーサー
   将軍など多くの関係者自身が、後に「あれは間違いであった」と認めているワケで 
   あって、それを今さらゴチャゴチャ云われても、参拝反対の合理的理由にはならな
   いし、外国からの非難に至っては、国内問題に対する「不当な内政干渉」に過ぎな
   い。
   
   以前読んだ書物の中に、「物の見方」や「捉え方」、そして「考え方」に関する非常
   に面白いエピソードが書いてあった。 まったく別のシューズ会社に勤める2人の
   営業マンが、アフリカの奥地に靴のセールスに行った時のこと。 そこの原住民が
   誰一人として靴を履いていないのを見て、一方の営業マンは会社に、「原住民は
   靴を履いていない。次の飛行機で帰国する」と連絡を入れたのだが、もう一方の
   営業マンは「原住民は靴を履いていない。あらゆるサイズの靴を至急送られたし」
   と連絡を入れたそうな。

   同じ1つの状況を見ても、人によって捉え方は千差万別であり、それによってその
   後の行動まで180度違ってくるということの象徴とも言える話だが、「靖国問題」に
   関しても同じような事が言えるのではないだろうか?  日本のために命を捧げた
   人々は、単にその時代の政治に翻弄(ほんろう)されて散っていったのではない。
   その後、現在にまで続く、日本の未来のために散っていったのである。 つまりは
   誰がどんなに否定しようとも、今日の日本があるのは、彼らの尊い犠牲があったか
   らである。

   このことに対して思いを巡らすことなく、海外で「ボランティア活動モドキ」をやって
   いる自分こそ平和主義者だと思っている人々というのは、実は一番危ないのだ。
   目の前にある自分のルーツに対して感謝する事ができない人間が、本当の意味
   での「平和運動」ができるようには到底思えない。

   どうかもう一度、下記の徒然の中で紹介したエピソードに目を通して頂き、現在に
   つながる平和とは何なのか?ということを考えて頂ければと思う。一切の偏見や
   政治的信条は排して読んで頂ければ、きっと靖国に眠る250万の英霊が、我々に
   望んでいるのは、「人類の平和と繁栄」であることがご理解頂けると思うし、そんな 
   彼らに対して深く哀悼の意を表すことが「軍国主義化」につながるなど、絶対にあり
   えないということがお解り頂けると思う。

             平成15年1月25日付  「戦艦大和の最期」



■平成16年8月17日  「スポーツと公平性」
   
   イヤイヤ、ここんところ妙に重い話題の徒然が多かったが、まぁ、1年に1度くらい
   マジメに「‘ニッポン人’とはなんぞい?」みたいなことを考えるシーズンがあっても、
   別にバチはあたらんだろってことで、お許し頂ければ幸いである。

   さてさて、先週から始まったアテネ・オリンピック。谷亮子選手の大会2連覇を筆頭
   にして、前半戦はかなり日本も善戦して、今日現在、金メダル4個、銀メダル1個を
   既にGETしている。ワタシの場合、異国の地で同じニッポン人が活躍しているのを
   見ると、なぜか「おっしゃ〜! オレもガンバルぞ〜っ!」って気分になり、イキナリ
   早朝ランニングなんかを始めたりして、そして100mも走らないウチに、メチャメチャ
   気持ちが悪くなって、最終的にはゲロってしまうというパターンが実に多い。これを
   ジョークだと思っている方も大勢いらっしゃるかもしれなが、マジなのである。(笑)

   ところで、オリンピックに限らず、大きなスポーツ選手権で必ず1度や2度は話題
   に上るのはドーピング(薬物使用)の問題である。 今回のオリンピックでも、既に
   ドーピング検査で、興奮剤「カチン」が検出されたボクシング選手が、既に失格と
   なっている。

   ちょいと古い話で恐縮なのだが、ソウル・オリンピックの陸上男子100mで、カナダ
   のベン・ジョンソンが、9秒79という驚異的な記録で、宿敵カール・ルイスを破って
   優勝したのだが、その後のドーピング検査で薬物(筋肉増強剤??)を使用して
   いたことが発覚し、金メダルを剥奪されるというセンセーショナルな事件あった。
   
   このニュースが流れた時、ワタシはたまたま小料理屋で知人と一緒に飲んでいた
   のだが、ニュースを聞いた知人がボソッとつぶやいた、「別に背中にエンジンを付
   けて走ったワケじゃないんやから、エエんとちゃうの?」という一言に大爆笑した。
   彼の名誉のために言っておくが、彼は決して薬物中毒者ではない。(笑)

   確かにルールで禁止されている薬物を使用してたのだから、失格になってしまう
   のは仕方がない。 しかし、9秒97という記録は、とりあえず生身の人間が実際に
   自分の足で走って出した記録であることは間違いない。 ならば、それを全面的に
   否定してしまうってのも、実にケツの穴の小さい話じゃねーか。 スポーツ選手とし
   ての「モラルの問題」ってのは一先ず横に置いといて、要は薬物を使用している
   選手と、全く使用していない選手じゃ、結果に理不尽な差が出てくるので不公平
   であるってのが問題なんだったら、この際、薬物使用がバンバンOKって言う競技
   を作ってしまえばエエやんか・・・・・これが彼の言い分であった。(笑)

   まぁ、薬物OKってのは極論ではあるが、彼の言い分の中には、極めて「正論」の
   部分もある。 これは全てのスポーツに関して言えることだが、表面上は公平な
   ルールの下で行われているようにも思えるが、ルール外のところでは、不公平な
   状況が渦巻いている。例えば高校野球。九州・沖縄の高校と、冬になるとグランド
   が雪で覆われて使えなくなってしまう北海道の高校じゃ、練習内容に大きな差が
   生まれてくる。さらに後援会があるかないかによっても、設備に天と地ほどの差が
   出てくる。 いくら甲子園で公平なルールで戦っていようとも、それ以前の段階で、
   既にタップリと不公平が炸裂しているのである。

   これはオリンピックについても同じである。先進国と発展途上国じゃ、練習にかけ
   る費用には雲泥の差があり、「費用の差」はそのまま「設備の差」になり、さらには
   「ソフトの差」にもつながってきて、最終的には「結果の差」にもなってくる。 これに
   加えて、自国と開催国との気候の差や、現地入りまでの交通手段の差などを考え
   合わせると、ホントに公平なのかどうかが、よく判らなくなり、「ドーピング検査」って
   のも、先進国が自分達のモラルの中で勝手に都合よく設定した「公平」と「不公平」
   の線引きに過ぎないんじゃないかとも思えてしまう。

   世間じゃあまり知られていないのだが、 「競艇」ではエンジンってのは試合直前に
   なってから、開催レース場で主催者から選手に貸与される。つまり、選手は性能的
   には同じエンジンを与えられ、それを試合前の短時間で自分なりのセッティングに
   調整し、そして持参した自分自身で加工したプロペラをつけて試合に臨んでいる
   のである。

   この精神を何とかオリンピックにも生かせないモンなんだろうか? 例えばウエア
   が及ぼす影響が大きい競泳や陸上の短距離などは、オリンピック委員会が選手
   に同一のウエアを提供するとか、オリンピック開催の1年くらい前からオリンピック
   村&各競技会場をOPENし、同一環境で練習できるチャンスを広げてあげるとか
   である。スポンサーがアホほどついてるオリンピックなんだから、そのくらいの負担
   はオリンピック委員会でやってあげればエエと思うのだが・・・・。



■平成16年8月18日  「哀愁のラジオ・前編」

   学生時代と比べて、どーも最近、「創造力」ってのがなくなってきているような気が
   する。平たく云えば、どんどん「アホ」になってきているだ。

   もちろん、「実は元々アタマが悪かった」とか、「年齢と伴に怠け癖がヒドクなって
   きた」など、内的要因ってのが原因大半を占めるんだろうが、それだけのせいに
   してしまうのもムカつくので、そりゃ外的要因だってあるんじゃねーか?ってことで、
   いろいろと探してみたところ、いくつか思いあたるフシがあった。

   中学から高校にかけて、ワタシたちの世代(昭和30年代生まれ)の楽しみの1つ
   に、深夜のラジオ番組ってのがあった。関西地区の人間であれば、午後10時から
   MBS放送の「ヤンタン」、そして午前1時から「オールナイト・ニッポン」を聴くのが
   毎日の日課であった。

   当たり前の話だが、テレビと異なり、ラジオってのは音声しか流れてこない。って
   ことは、そのまま聴いていたらスゴーク退屈なのだが、ここに「創造力(想像力)」
   ってのが加わることによって、ある意味でTVと同等かそれ以上に楽しい時間に
   変身させることができるのである・・・・・・・なーんて書いたら、若い方は「ラジオを
   聴きながら、一体ナニを想像すればイイの?」と思うことであろう。別に小難しい
   ことやミョ−なことを想像する必要はない。例えば、その番組のパーソナリティの
   顔を声から想像してみたり、リスナーの便りからその人の日常生活を推理したり、
   スポーツ中継から会場の雰囲気を想像してみるのもイイかもしれない。

   実は最近、タクシーに乗っていたところ、ラジオからオリンピック中継が流れてい
   た。 「オリンピック」と「ラジオ」の組み合わせってのは、それこそ今まで想像すら
   していなかったのだが、これがけっこう楽しかったのである。 ちょうどその時は
   柔道の試合を中継していたのだが、「野村、内股で決めましたぁ!」なんて実況
   が流れると、ナンだかみょーにカマっぽいというか、まるで野村選手が弱々しく
   内股で歩いてきて、客引きをやっているように聞えるのである。(笑) もちろん、
   テレビで実際の映像を観ていれば、そんな想像などしなかったであろう。

                                                つづく


■平成16年8月21日  「哀愁のラジオ・後編」

   いやいや、すっかり調子にのって2日連続して更新をサボってしまったが、さすが
   に3日連続ってことになると、「ついにナイフラも空中分解してしまったか!?」と
   誤解されてしまう恐れがあるので、遅ればせながら、「哀愁のラジオ」の後編って
   ことで、ウダウダと書いてみようと思う。

   前回の徒然にも書いたことだが、TVと比べてラジオを聴く場合には「想像力」って
   のが必要となってくる。イヤ、別にボーっとしながら聴いていたもエエのだが、それ
   よりも、想像を膨らませながら聴いてた方が、より番組を楽しめるのである。

   想像を膨らませる・・・つまり頭を使いながら聴いているのだからして、普通に考え
   れば、ナンだかすごーく疲れてきそうな気がするのだが、不思議なモンで、テレビ
   を観ているよりも、ラジオを聴いている方が圧倒的に疲れが少ない。医学的根拠
   があるワケじゃないが、根本的に「目を使う」ってのは、我々が想像している以上
   に肉体的疲労が伴うんじゃないかと思う。

   「百聞は一見にしかず」という諺(ことわざ)の影響なのかもしれんが、我々は映像
   に関しては、ほとんど何の疑いもなくそれが真実だと思って観ていることが多い。
   そのせいか、テレビを観てる時ってのは、なーんも頭を使っておらず、ある意味で
   我々は非常に騙されやすい状況にある。例えば、旅行番組の中に出てくる現地の
   人々ってのは、みんな例外なくスゲー親切であり、ここじゃ犯罪なんか起こらない
   じゃないか?と思ってしまいそうになるが、実際には悪い人もいるだろうし、犯罪
   だってあるハズなのだ。ところが、我々は「映像は真実を写している」と、カンペキ
   に思っているので、一種の思考停止状態に陥ってしまっている。

   その点、ラジオってのは言葉だけの情報のせいか、「話半分」という諺があること
   でもお分かりのように、全てが真実だなんて誰も思っちゃいない。 心のどこかで、
   「オイオイ、ホンマかいな〜ぁ・・・」と疑いながら聴いているフシがあるのだ。(笑)

   皆さんご存知の通り、頭ってのは使わないと、どんどんアホになっていく。ボーっと
   テレビばっか見ていたら、1年もすりゃ九九が言えなくなり、2年後には人の名前が
   思い出せなくなり、3年後には絶対に筋金入りのアホになっていると思う。 だから
   たまには寝る前にラジオを聴き、想像力をフルに発揮しながら、脳を活性化させた
   方がイイと思う。(今回も中身のない徒然を書いてしまった・・・・・笑)



■平成16年8月23日  「Let's everybody be cool

   ご覧になった方も多いと思うが、昨日TVで「アポロ13号」が放映された。 簡単に
   ストーリーを説明すると、1970年4月11日、3回目の月面調査のため打ち上げられ
   たアポロ13号で爆発事故が発生。司令船の外壁は吹っ飛び、宇宙旅行には必要
   不可欠な酸素が流出。さらに電力も徐々に低下していき、月着陸はおろか、地球
   への帰還も絶望的な状況に陥ってしまった。

   そんな中、地上の飛行管制センターでは3人の乗組員を無事地球に帰すために、
   主任管制官を中心としたスタッフ全員が一致団結。次々に発生する問題を1つ1つ
   クリアしながら、最後には宇宙飛行士たちは無事に地球に戻ってくるという感動の
   物語である。
  
   もちろん多少の演出はあったにせよ、基本的には事実に基づいた内容の映画で
   あり、アメリカ人から言わせると、人類初の月面着陸に成功したアポロ11号よりも
   アポロ13号の奇跡の生還の方が深く印象に残っているそうである。

   さて映画を観てもお解りのように、死と隣り合わせの状況で、実際に宇宙船内で
   奮闘する3人の宇宙飛行士もスゴイのだが、ワタシ的にはプロジェクトの総責任者
   であり、救出劇の中心人物でもあったGene Kranz (白いベストを着ていた角刈り
   の人物)の方が、はるかに印象に残っている。確かあの事故当時、彼はまだ30代
   の若さであったはずである。(というか、地上スタッフのほとんどが30代だった・・・)
   絶体絶命のピンチにもかかわらずクールに問題を解決していく彼の姿に、ワタシ
   はもうシビレっぱなしであった。(何度も言うが、あれは映画のための演出等では
   なく、実際に彼は非常に冷静な人物だったそうである)

   彼のセリフの中で、いくつか印象に残っているものがある。

     ●Failure is not an option.
      (「失敗」という選択肢はない=失敗は許されない)

     ●Let's everybody be cool.
      (クールにいこうじゃないか=冷静にやろうじゃないか)

   「Failure is not an option.」というセリフは、恐らく文法中心で教育されてきた我々
   では、ちょっと思いつかない英語表現じゃないかと思う。さらに「cool 」という単語
   は、確かに「冷静に」という意味もあるが、どちらかというと「カッコイイ」という意味
   で使われることが多く、「冷静にやろうじゃないか」というセリフの裏には、「カッコ
   良くいこうじゃないか」という意味も含まれていたのではないだろうか?

   アポロ13号の事故を思い出したとき、いつも考えさされるのは、トラブル発生時の
   アメリカの底力である。確かに人間を月に送り出す技術というは、スゴイことでは
   あるのだが、予想外のトラブルにより、オリジナル計画をすべて破棄し、限られた
   時間内に限られたツールを使って最大限の結果を引き出すという技術の底力は、
   まさに驚異的である。Gene Kranz 自身の言葉を借りて言うならば、「今は、‘何の
   ために作られたか’ではなく、‘何のために使えるか’ということを考えようじゃな
   いか」ということに関して、アメリカは抜群に柔軟性に富んでいると言える。

   これが日本の場合、プロジェクトの準備段階に関してはスゴク得意というか、非常
   にきめ細やかで、さらに事が順調に進んでいる間はチーム・ワークも抜群である。
   ところが一旦トラブルが発生すると、それらが途端にズタズタになってしまう傾向
   がある。その原因は明白で、それまでチームをまとめていたはずのリーダーが、
   急に自己保身に走って、プロジェクトやチーム自体を見捨てたり、トップの面々は
   「会社のメンツ」ということだけを考えて行動し始めるからである。「事故隠し」など
   は、その典型的な例であろう。

   さて皆さんの会社には、トラブルに際して「Let's everybody be cool.」というセリフを
   ビシっと決めてくれる上司さんが何人くらいいらっしゃいますぅ?(笑)



■平成16年8月24日  「‘もし’から学ぶ」

   歴史に「もし」という言葉はタブーである・・・・・歴史家がよく口にするセリフである。
   歴史学ってのは事実を科学的に検証することが本道であり、「もしあの時・・・・・・」
   などという、「仮定」を前提とした議論や研究は邪道ってワケだ。

   その一方で歴史家は「歴史はロマンである」とも言う。歴史的事実に反する仮定
   はダメだが、事実と事実の間の「未知の部分」を想像するのは、ロマンあふれる
   作業であり、それについてはぜ〜んぜんOK っちゅーことである。

   まぁ、ロマンに関しては人それぞれなんで横に置いといて、確かに歴史家が歴史
   を研究する時には、「もし〜」ってのはタブーだとは思う。しかし、学校教育の中で
   歴史を学ぶ時は、「もしあの時〜だったら、どうなっていたと思う?」みたいな感じ
   で、じゃんじゃん事実に反する想像した方がエエんじゃないかと、ワタシは思うの
   である。

   長〜い歴史の中で、その時代を生きた人々は、正しい判断を下したこともあれば
   思いっきり間違えた判断を下した事もある。 それらを正確に学ぶためには、まず
   「自分だったらどうしていたか?」という仮定から始める、つまりシミュレーションを
   生徒にやらせてみるのが、けっこう有効なんじゃないかと思うのである。 その際、
   重要なのは、単独でやらせるのではなく、ちゃんと役割分担を決めて、その当時
   の人間関係も含めて、周辺の状況もできる限り忠実に再現した上でシミュレート
   することである。
   
   これによって、歴史上の「間違えた判断」や「正しき判断」、さらには「やむを得な
   かった判断」というものまで、自分自身のこととして、より深く理解できるだろうし、
   間違えた判断に関しては、二度と同じ間違えを繰り返さないための知恵や反省
   が生まれてくる。これこそが本当の意味での「歴史に学ぶ」ということだと、ワタシ
   は思うのだが・・・・・。



■平成16年8月25日  「ハンドル・ネーム」

   ワタシのハンドル・ネーム「し〜さま」の由来に関する質問メールを、読者の方から
   頂戴した。 これまでにも、あちこちで説明したことがあったので、スッカリこの徒然
   でも説明したと思っていたのだが、どうやらまだ書いていなかったらしい。

   実は、改めて「由来は?」などと聞かれて説明するほど、劇的な由来は全くない。
   仕事柄、外人さんと接する機会が多いのだが、ご存知のように外人さんってのは
   ちょっと親しくなると、年齢に関係なく、すぐにファースト・ネームで呼び合うように
   なる。ヘタすりゃ、自分の会社の社長だって苗字ではなく、名前で呼ぶことも多々
   あるくらいだから、プライベートな付き合いでは、ほぼ100%とファースト・ネームで
   呼ばれる。

   で、ワタシの名前は「シゲキ」なのだが、こっちはそれほど親しいと思っていない
   のに、やたら「Hey, Shigeki!」と呼び捨てにされるのも何だかシャクに障るので、
   呼ばれた時に気持ち良くて、しかも外人さんが覚えやすいニックネームはなんぞ
   ないかいな?といろいろ考えたみた結果、「シゲキ様」の省略形である「し〜さま」
   であれば、「Sea Summer」とスペルしてあげれば、外人も一発で覚えることができ
   るので、それにしたというワケである。

   いや、実際のところ、朝っぱらから外人さんに「グッド・モ〜ニング、し〜さま!」と
   挨拶されると、何だか自分がエラクなったような感じで、けっこう気持ちイイんだ、
   これが! マジマジ!(笑)  因みに、飛行機ではスチュワーデスさん達は通常
   お客さんに「Mr.〜」とか「Ms.〜」と呼びかけてくるが、このような状況においても
   ワタシはいつものシャレの延長で、「Do call me 'Sea Summer'!(‘し〜さま’って
   呼んでネ♪)」と、半強制的にニック・ネームで呼んでもらっている。(笑)

   さてさて、ニックネーム(ハンドル・ネーム)ってのは、皆さんがそれぞれの感性で
   付けられていると思うのだが、住んでいる場所によって、作風?にかなり特徴が
   あるように思う。ワタシの長年の研究によると、関東は外来語のハンドルネーム
   (以下、HNと略)をつける人が多いのに対し、関西系はやっぱ土地柄のせいか、
   ウケ狙いのモノが非常に多い。

   さらに、独断と偏見に基づいて述べさせて頂くなら、外来語や英単語のHNの中
   でも、特に劇的っちゅーか大袈裟なHNをつけている方ってのは、実際にお会い
   してみると、これが思わず笑ってしまうくらいHNとの落差が激しい方ってのが多
   いような気がする。あっ、別にこれは決して悪い意味ではない。 ワタシは根本的
   に「意外性」ってのが大好きなのである。
   
   ところで、ナイフラでも過去に何度かOFF会を開催したことがあるが、ネット上で
   知り合ったこともあり、会場で自己紹介をしあった後でも、本名ではなく、みんな
   お互いにHNで呼び合っている。それはそれで別に問題がないように思えるのだ
   が、実はスゴーク大きな問題が発生することがあるのだ。

   例えば、参加者が宿泊しているホテルに電話を入れ、部屋につないでもらいたい
   時、咄嗟に本名が思い浮かばず、ついつい電話口のおねーさんにHNを告げてし
   まうことがある。 この場合、関東系の外来語のHNであれば、まだナンとなくカッコ
   がつくのだが、これが関西系のHNだと、もう大変である! 例えば「すみません、
   そちらにご宿泊のお客様で、‘ぽよぽん’さんのお部屋につないで頂けますか?」
   などと言おうものなら、ほとんどイタズラ電話としか思われない。

   これからOFF会の開催を考えていらっしゃる方で、参加者の中に関西人が数多く
   いる場合には、くれぐれも本名の方もシッカリと覚えておかれることをオススメする
   次第である。(笑)



■平成16年8月26日  「天才」

   神様は、天才と凡才を見分ける才能だけを、私にお与えになった・・・・・・これは
   イタリアの作曲家・アントニオ・サリエリが、あの天才的作曲家のモーツアルトと
   自分を比べて思わず呟(つぶ)やいた言葉である。サリエリとて一般人から見れ
   ば十分に天才の範疇に入ると思うのだが、当の本人はそうは思っていなかった
   ようである。

   世の中の各分野には、「天才」と呼ばれている人々が必ず1人はいるワケだが、
   実はサリエリ同様、自分のことを「天才」だと思っている人は意外なほど少ない。
   まぁ、「そんなこと考えたこともない」ってところが天才の天才たる所以(ゆえん)
   と言うことかもしれない。

   んじゃぁ、天才と呼ばれている人々が考えている「天才の定義」ってのは、どんな
   感じなのかというと、発明王のエジソン曰く、「天才とは1%の才能と99%の発汗
   (=努力)である」とか、20世紀最大の天才物理学者・アインシュタイン曰く、「私
   は天才ではありません。ただ、人より長く1つのことに付き合ってきただけです。」
   等など、非常に控え目な発言というか、凡人のワタシからすりゃ、「それって秀才
   の定義やんけぇ!」とツッコミたくなるような認識をもった人が多い。

   確かに天才だって努力はしていると思う。 しかし、それは周囲の人間が勝手に
   「努力」と呼んでいるだけであり、本人たちは努力だとは思っていないんじゃない
   だろうか? その点、秀才ってのは、もちろん周囲だって「彼は努力家だ」と認め
   ているし、それ以前に本人自身も「自分は一生懸命に努力している!」と思って
   いるような気がする。これは一見すると何か些細なことではあるが、天才と秀才
   の大きな違いと云える。

   さらにもう1つ、天才と秀才では「創造力」の違い、つまり今までにない新しいモノ
   を生み出す能力があるか否かの違いがある。 もちろん、この場合の「能力」って
   のは「可能性」というだけではダメで、実績として残っていなければならない。

   ところがこの「実績」ってのがまたクセモノで、その分野の専門家たちが声を揃え
   て「こりゃスゴイ!」と評価してるモノであっても、ワタシごときには理解できない
   ものが多々あり、例えば同じ画家であっても、写真で撮ったのと寸分違わぬよう
   な写実的な絵を描く人は素直に「スゴイ」と思えるのだが、ピカソのような抽象画
   を見ても、正直なところ「なんじゃコレ?」としか思えないのである。 

   「天は二物(にぶつ)を与えず」という諺がある。神様は1人の人間に多くの才能
   や資質を与える事はないという意味であるが、逆に云えば、一物(いちぶつ)は
   与えてくれてるってことであり、天才ってのは、幸運にもその一物に気がついた
   人なのかもしれない・・・・・・と、一瞬ワタシは、自分自身の未来にも希望の光を
   見出しちゃったりなんかするのである。



■平成16年8月30日  「多忙・多望・多忘」

   イヤイヤ、すんまへん、すんまへん! 「どーせ天性の怠け癖が炸裂したんだろう」
   と思われた方々も大勢いらっしゃたことでしょう。 ハッキリ言って、それはヒジョー
   に正解に近いっす。(笑) 

   先週中盤から週末にかけて、溜まりに溜まっていた仕事の「在庫一掃セール」って
   ことで、心を入れ替えてマジメに仕事に取り組んでいたのだが、あまりにも在庫が
   多すぎて、ダン隊長やチョコ女史の手を借りても、睡眠時間すらマトモにとれない
   状況が続いていたのである。 でもって、こりゃワタシの悪癖の1つなのだが、ある
   一定の限度を越えて忙しくなると、無意識にその状況をさらに悪化させてしまうよ
   うなアホな行動をやらかしてしまうのである。

   で、今回の場合のアホな行動とは、パソコンの「衝動買い」であった。高性能のPC
   を使えば、きっと仕事も早く仕上がるんじゃないかという、完璧な理論で新規購入
   したのだが、ケチってノーブランド品を買ったために、OSからインストールしなきゃ
   いけないわ、各種ソフトもインストールせにゃいかんわ、各データも移動させなきゃ
   ダメだわ、オリンピックは気になるわで、当初の完璧な理論はカンペキに崩れ去り、
   気持ち的にはすっかりヤケクソになっている次第である・・・・・・・・てなことで、当然
   ながら仕事のほうも、未だに予断を許さない状況が続いている。(笑)

   あっ、オリンピックで思い出したのだが、シンクロってのは、「競技」にしちゃイカン
   スポーツだと思う。 よく言われることだが、美的感覚ってのは人によって違うワケ
   で、だからこそ、あーんな顔の人にも恋人ができるし、こーんな顔の人だって結婚
   できるのである。(笑) このように、本来は点数なんか付けようがないモンに対し、
   「芸術性」と題して点数化した時点で、芸術とはかけ離れてしまうような気がする。

   同様に、格闘技ってのも芸術点はないにしても、今回のオリンピックのレスリング
   なんかを見ていると、ポイント制ってのもイマイチはっきりせんなぁ・・・・という感じ
   がする。その点、陸上競技や水泳など、スピードや距離を競い合うスポーツっての
   は、スゲー単純明快であり、誰もが納得できる・・・・・・・と、ここまで書いたところで、
   またまた仕事の催促のメールが届いた。(マジ) これからいよいよ面白い話になる
   ところだと言うの、実に残念である!!(笑)

   とりあえず、夏休みの宿題に追われている子供と同じだと思って、もう少しお時間
   をくださいませ。決して皆さんのことを忘れてるワケじゃありませんから。(笑)



■平成16年8月31日  「究極の美」

   アテネ・オリンピックも無事に終わり、改めて新聞のスポーツ欄を見て「お! プロ
   野球ってまだやってたんだぁ!」と感動された方もいらっしゃることであろう。(笑)
   で、昨日の徒然は急な仕事により、いつも以上に中途半端な状態で終わってし
   まったので、今日はその続きを書くことにする。

   確か、作家の東海林さだお氏もエッセイの中で書いていたと思うのだが、数ある
   オリンピック競技の中で、「シンクロナイズド・スイミング」ほど中年オヤジにとって
   応援しにくい競技は他にない。 あれってジックリ観てもイイものなのか、それとも
   ダメなものなのかが、オジサンには判断がつかないのである。何かジックリ観てた 
   ら周囲から「やーい、やーい、スケベおやじが必死で観てやがんの!」と、まったく
   身に覚えのない批判をされそうな気がして怖いのだ。(笑)

   かといって、新聞を読みながら、その隙間からチラチラと観たりなんかした日にゃ、
   余計に怪しいオヤジに見られてしまう。まぁ、たぶん自意識過剰なんだとは思うが、
   とにかくシンクロとか新体操ってのは、素直に観たり応援することが、非常にやり
   にくい競技なのである。

   さてさて、中年スケベおやじの代表のようなワタシであるが、実はシンクロだけは
   どーも昔からあまり好きになれない。昨日の徒然で書いたように、そもそも本来は
   自由であるはずの「美」ってのを競い合うってのが、いまいちピンとこないってこと
   もあるのだが、それ以上にな〜んか胡散臭いモノを感じる部分があるのだ。

   例えばシンクロの選手はいつも笑顔で演技をしている。どーもそれがワタシには
   まるでマクドナルドのねーちゃんの笑顔のように、実にワザとらしく感じてしまうの
   である。さらに水面に飛び出た途端、いきなり満面の笑顔ってのは、冷静に考え
   れば実に不自然であり、そうしなければならない彼女たちの立場には同情を禁じ 
   ない。

   まぁ、「不自然派の巨匠」と呼ばれているワタシが言うのもナンなのだが、もしこの
   世に「完全な美」があるとすれば、それは「自然の美」じゃないかと思う。この場合
   の「自然」とは、鳥や花、そして雄大な景色だけではなく、人間が本来もっている
   自然な感情や姿、そして生態も含まれる。 マラソン選手が苦しそうな顔で走って
   いる姿の方がワタシは「美」を感じるし、勝者がガッツポーズを、敗者がガックリと
   肩を落としている姿の方が、心に響いてくるものがある。少なくとも、演技の中で
   見せている「点数を稼ぐための笑顔」よりは、芸術的であると思うのだ。

   シンクロの演技の中で、水中にいる選手に押し出されるような形で、派手に水面
   高く飛び出してくる大技があるが、どんなに笑顔で飛び出してこようとも、イルカが
   ジャンプする時の美しさには絶対にかなわないのもそのためである。 それは高さ
   とか迫力の問題ではなく、「自然美」と「人工美」の違いからきているからだ。

   ・・・と、いろいろ書いてきたが、もちろん地道な努力を続けている選手に対しては、
   賞賛の気持ちこそあれ、非難する考えは毛頭にない。あくまでも「美」というものを
   点数化して競わせようとしていることの「滑稽さ」について、私見を述べてみただけ
   である。


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©Knight Flight 2003. Presented By C-sama, Capt. Dan and Chocolist.